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経 営

東映のここが凄い

税経管理第2部 部長 林

少子高齢化の進展により、マーケットの縮小に身構える経営者の皆さんも多い事と思います。今回は、すさまじい勢いで映画マーケットの縮小という環境の変化に対して存続の危機を乗り越えてきた東映の生き残り方、戦い方、しのぎ方をご紹介します。日本のすべての企業がマーケットの縮小を余儀なくされている今、少子高齢化社会に適応するためのご参考になれば幸いです。

■映画館で映画を観た観客動員数の変化 (観客動員数)

昭和33年 庶民の娯楽は映画だった時代 11億2745万人 ここが最盛期
昭和43年 テレビの普及や娯楽の多様化など 3億1339万8,000人 最盛期の約1/3
昭和53年 1億6,604万人 最盛期の約1/7
令和6年 ヒット作があり昭和53年並保持 1億4,444万1,000人

令和4年の東映の年間興行収入は、過去最高の325億円を記録しました。これには「ONE PIECE FILM RED」と「THE FIRST SLUM DUNK」が大ヒットしたことが大きく貢献しています。

観客動員数が減少傾向にある一方で、興行収入が伸びている主な要因は、経費の増加に伴うチケット価格の上昇による影響が大きな要因です。尚、令和4年3月期の東映株式会社全体の連結売上高は1,175億3900万円でした。興行収入はその内の325億円ですから、興行収入の割合は想像以上に少ないと感じます。

上の表からも分かる様に、観客数は激減し、映画会社は苦労の連続でした。映画の製作だけでは厳しい状況となってしまいました。

東映の3つの「し」。しのぐ、しぶとい、神風(しんぷう)。苦しい時代を「しのぐ」。「しぶとく」仕事をみつけてくる。「神風(しんぷう)」が吹くのを待つ。3つの言葉が東映の歴史です。

東映といえば、東映の看板俳優として活躍してきた高倉健さんと仮面ライダーが最初に思い浮かびます。東映の歴史を語る上で欠かせない両者は、それぞれ映画と特撮という異なる分野で東映の黄金時代を支えた象徴的存在です。子供の頃に夢中になってテレビでみていた仮面ライダーが当時の東映の多角化戦略の象徴など知る由もなく・・・

東映が発足したのは昭和26年。3社が集まって出来た映画会社です。配給会社の東京映画配給が東急の製作会社ある東横映画、貸しスタジオ業から出発した製作会社の太泉映画を吸収合併して始まりました。東映のマークが三角なのはこの3社が集まって出来たことを表しています。

では、東映の生き残り方、戦い方、しのぎ方とは、どの様なものなのでしょう。東映のとった具体的な方法について見ていきたいと思います。

東映は映画が斜陽になっていくにつれ、経営の多角化を進めていきました。

■東映の多角化は映画の最盛期の頃から既に始まっています。

昭和31年 アニメーション事業進出

昭和34年 テレビ事業開始 テレビドラマを制作し、テレビ放映を開始

映画事業以外では、不動産開発やホテル経営なども展開し、建築内装事業も展開してきました。又、キャラクターショーやキャラクターの商品化など、映画と関連した部分も拡張してきました。

他にも時代劇の製作本数の減少に伴って、京都撮影所の遊休地を太秦映画村にしてテーマパーク事業にも進出しました。プロ野球、ショッピングセンター、消費者金融、葬祭業、ガソリンスタンドといった事業にも進出しました。

東映の売上全体に占める映画の収入割合は、映画が娯楽の中心という時代は収入の大部分を占めていたのですがその割合は次第に縮小していきました。映画以外の娯楽が増えていった事もあり、映画が斜陽となる事を予測していました。

しかし、多角化にはリスクも伴いますし、費用もかかりますので決断力・実行力と慎重さも求められます。

東映の凄いところは、映画の最盛期だった頃から将来の状況を見据えて多角化を進めて来た点にあります。映画と関連した部分を増やしながら、映画とは全く関係のないところへも新たに参入するなどしてきました。既に撤退した事業もあり全てが成功した訳ではありませんが、勇気のいる思い切りのいい決断です。

多角化を目指す事は、中小企業にとってはリスクもあって簡単には踏み出せない事と思います。とはいえ、今迄やってきた事と全く同じ事を漠然と繰り返すだけでは、会社は現状維持すら出来ずに自然と縮小していってしまいます。

多角化という事にとらわれず、組織の姿勢としては前年より少しでも良くしていこうという心構えと実行結果の分析、探求心がとても大切だと感じています。

まずは一つでも改善出来る部分から実行していくのが良いと思っています。

参考書籍「東映の仁義なき戦い」プレジデント社 野地秩嘉 著

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