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−絵画の力U 藤田嗣治の生涯と戦争画−

May・June  生誕120年を記念して、藤田嗣治展がこの春、東京国立

近代美術館から始まりました。全97点の彼の生涯にわたる作品群は圧倒的

です。

 藤田の「乳白色の肌」の優美な婦人像は、背景の落ち着いた色調とのハー

モニーもよく、何とも言えない芳しさがあります。今回その時期の大作がた

くさん公開され、堪能できます。藤田は帰国を考えず若くしてフランスに渡

り、パリで画業に精進します。モンパルナスでのピカソやモディリアーニ達

との交友から、世界に認められるには模倣ではいけない、自分にしか描けな

いものを画かなくてはと思い定めます。そういった思いが結実したのが、画

布からオリジナルにつくられた「乳白色の肌」です。マチスやボナールの色

彩に対し、シックなモノトーンで挑みました。

 藤田の著書「腕(ブラ)一本」を読むと、初期の貧困の中での毎日14時

間は絵を描く徹底した打ち込み、自分の絵画を作る事への集中、パリの馬鹿

騒ぎに乗って楽しむ軽妙、異邦で才能が開花した様子がわかります。絵が売

れない時代、病気になったモデルのために、自分が他の画家のモデルになっ

て稼いで薬代とする姿もあります。文中、時々のその切れの良さに江戸っ子

を感じました。

 パリ時代の後、中南米を旅し、絵が変わります。色彩があふれ、シックな

画風ではなくなり猥雑さと華やかさが現れます。

 その後に日本に帰国し、第二次大戦中は進んで前線まで出かけて戦争画を

描きます。戦争画では、大勢の人々の構成もよく考えられています。藤田は

こういった群衆を描くために、ルーブルでドラクロア等のその種の絵画を研

究していたということでした。

 今回の展示会で初めて、藤田の戦争画を見ました。息をのみます。とんで

もなくすごい。戦時中展示された藤田の作品を見た人たちが、落涙し手を合

わせたという逸話が頷けます。「アッツ島玉砕」、「サイパン島同胞臣節を

全うす」、「血戦ガダルカナル」、これだけ戦争をリアルに感じさせる絵画

が過去にあったかと思いました。兵士達の苦悩、絶望、猛りが、バンザイ岬

の母親の悲嘆が迫ってきます。「乳白色の肌」だけの画家ではなかったので

す。これらの戦争画も彼の素晴らしい傑作です。この時代の日本人は、極限

の中で死んでいったことを直感します。これらの絵画を見ていると熱い思い

がこみ上げてきます。

 戦後、他の画家から、戦争画の責任は全て藤田がかぶってくれと懇願され

ます。藤田は戦争協力画家の筆頭としてやり玉に挙げられます。藤田は、日

本を去り、アメリカ経由でフランスに渡り、帰化。キリスト教の洗礼を受け、

レオナルド・フジタとなります。その後、目のつり上がった、おでこの広い、

口をきっと結んだ同じ顔の子供達の絵をたくさん描きます。ライフワークと

してランスの礼拝堂を設計から手がけ、そこにキリスト教の説話の壁画を描

きます。礼拝堂完成の2年後に亡くなり、ここに葬られました。

 極東から、たった一人で当時の絵画の中心地パリに乗り込み、世界と勝負

した波乱に富んだ見事な生涯が完結し、素晴らしい作品群が残されました。

                             20060428 


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